大島社会文化研究室研究会のご案内
テーマ 19世紀の戦争と先島諸島: 日清戦争以前の八重山における開墾事業
報告者 柳啓明(東京医療保健大学非常勤講師、政治経済研究所理事、早稲田大学歴史館非常勤嘱託)
reserchmap: https://researchmap.jp/hiroaki_yanagi
日 時 2023年9月30日(土曜)午後14時~16時
参加費 無料
場 所 Zoom報告
※zoom招待URLおよび事前資料は、お申し込みされた方へ、前日午後5時頃にお送りいたします。
【概要】
「台湾有事」の名のもとに、国境地域である先島諸島を、南西諸島における重要な軍事的拠点として位置づける言説が広がっている。それとともに、地域社会には基地建設や自衛隊配備の是非めぐる対立や不安が生まれた。国境地域を紛争候補地と位置づけ、地域社会にその重荷を負わせるあり方は、国境を持つ近代国民国家にとって不可避なものなのだろうか。少なくとも、こうした仕組みを前提として生活をするわれわれには、その重荷を理解する責任があるはずである。そして、そこには19世紀後半を端緒とする「領土問題」が日本および欧米の植民地支配の歴史とともに横たわっている。ゆえに、東アジアにおいて近代的な国境の概念が組み込まれる当時の歴史のなかで理解することが重要である。この立場から、19世紀後半、小国・琉球の境界に位置する八重山の地域社会の姿を、東アジアの植民地化に伴う国家間の境界の意味の揺らぎのなかで記述することが、報告者の研究目的である。
日清戦争以前、八重山が属する琉球の版図は係争状態にあった。近世、琉球は日清「両属」のなかで国家としての自立を維持し、1850年代にはフランス・アメリカ・オランダと修好条約を結んでいる。しかし、1874年に日本は台湾先住民による琉球人(宮古島の船に乗船)殺害に対する報復を名目とした台湾出兵を、1879年には琉球に対し軍隊・警察を伴って廃藩置県を行い、琉球を自らの版図とすることを試みた。しかし、これで領土が確定したのではない。一部の琉球士族らは日本に対する派兵を求める救国運動を起こして清に渡り、琉球内部においても日本統治への不服従を求める血判誓約書が広がった。琉球の版図のあり方をめぐり、欧米の国際法に基づく領土による版図の確定を求める日本と、冊封体制による国際秩序の維持を求める清との対立が、背後に欧米が構えるなかで作られたのである。
琉球を含め、この時期の東アジアの版図の形には、軍事的な暴力を背景として様々な可能性があった。前米国大統領グラントの仲介により、日本が中国における欧米並みの通商兼を得る代わりに、沖縄島を日本に割譲し、宮古・八重山に琉球を移す「分島増約案」が浮上していたが、1881年に調印の直前に清の意思によって破談となる。また同年、清はロシアとの間で領土の割譲・返還を取り決めるイリ条約を締結していたし、1885年には清とフランスの間で天津条約が締結され、ベトナムはフランス領となった。各国の内政も安定していたわけではなく、1877年には日本で西南戦争が起こり、朝鮮では1882年に壬午軍乱、1884年に甲申事変が起こっている。1885年以降は表面的には安定したとされるが、現在も国境問題をかかえる周辺の離島への日本人の進出はこの時期に活発化する。
本報告で記述するのは、このような時期の八重山における、1880年代~日清戦争にかけての開墾事業である。東アジアの版図は係争状態があったが、日本政府は旧慣温存路線で琉球の制度を維持しながら統治を進めおり、それと並行して、「内地」の日本人商人らを中心とした開墾事業が行われたていた。この事業の実態を、19世紀の東アジアにおける植民地の拡大と並行する八重山の共同体の変化として記述する。
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